リレーインタビュー(第9回)

有限会社森伊蔵酒造
森覚志(もり かくし)代表取締役


『掛け軸に夢っていう字書いてあるんですよ。』
平成14年3月15日取材:4月10日掲載

 

◆垂水市の北のはずれで

 鹿児島市からフェリーに乗って桜島にわたり大隅半島へ行く。
北に向かって錦江湾沿いに車を走らせると、至る所にビワの栽培をしていて、果実が傷つかないように袋掛けがしてある風景が目に飛び込んでくる。 まるで白い大きな花が山の斜面一杯に咲いているようだ。 大隅半島からの錦江湾越しに西方を望めば、すぐ近くのはずの桜島が春の霞に遙か遠くに有るかのよう。

▲垂水のビワ栽培。
果実に袋がけしてある。


 ここは牛根境といって、垂水市の北方、ブリの養殖などの漁業を主な生業とする小さな集落である。国道は通っているが主要な物流のルートからははずれていて車通りも少ない。

 国道から車一台やっと通れるような路地を海に向かってちょっと歩くと蔵の入口を海に向けて漆喰で固めた蔵が建っている。堤防を隔てたすぐそこは海で、波の音が聞こえてくる。
「海辺の焼酎」という言葉が私の頭をよぎった。

  社長の森覚志さんは、昭和24年生まれ。8人兄弟の末っ子なのだそうである。


◆昔の話

  「あのね、私の記憶でうちが造り酒屋だといちばんは子供心に思ったのは『いやだなあ』と。(笑)普通のお店屋さんやったらいいのにな。私は昭和24年生まれですから、私たちが小学校くらいの時は物不足というか裕福な世の中じゃなかったです。うちが駄菓子屋さんであれ、お菓子屋さんであればいいなあと。いつでもお菓子が食べられますがね。(笑)
 実質、酒しかないわけですよ。私は今でもそうですけど28まで下戸だったんです。」

え?!(ちょっとびっくり)

「ええ。学生時代に友達が来ても友達はビールやウイスキーを飲むが私はコーラばっかり飲んでたんですよ。もうその頃は瓶のコーラがあった頃ですから、私はコーラ専門だった。(笑)」

  森さんの若い頃の酒の記憶には焼酎は出てこない。

▲森伊蔵酒造の蔵の入口
いい雰囲気だ。


「学生時代スナックとか飲食街に行くのは好きでしたけど、行って私が飲むのはコークハイですよ。当時は。ジンフィズとかあるけど私はウイスキーにコーラを入れたコークハイをね、『なめて』いるくらいなんですよ。
 ビールは苦いし、焼酎は飲めないし。子供心に第一に思ったのは、家が焼酎屋より別なほうがよかったと。中学校くらいになったときは、家の手伝いをしないといけないですがね。それがいやでねえ、いいイメージはないんですよ。
 だから、親父とお袋と手伝いしてる人たちが造ってるなあという感じで、高校時代になって本格的に日曜日に人手が足りないときには、瓶詰めとか、物を運ぶとかそういう作業さえできればいいですから、そん時は友達を集めて加勢するとか。でもいやでした。遊べなかったから。(笑)

▲蔵の入り口付近から撮った写真。
すぐ海。


 日曜日を見て親父は仕事を組んでますからねえ、私はご存じの通り八人兄弟の末っ子なんですよ。だから他の兄弟達は、ほれ、独立して家にいませんでしょう?。だからそういう形で、自分が一番身近におって、『小間使い』ですね。製造時期だったら今みたいに、芋をつぶすなどの機械化はなかったですから。当時は芋をつぶすのでも米を洗うのでも木の桶に米を入れて手で洗ったり・・・あの、『いもふみ』ってごぞんじですか?」

『いもふみ』とはなんですか?

「松の枝でねえ、これを切って逆さまにして、木の芯に枝のついておったので、洗うわけですよ。この『いもふみ』っていうのでねえ米を洗って、そいでかついで持っていったりとか、ほんとの人海戦術というのか、体力さえ有れば酒造りが出来るような時代でしたから、それが高校生とか大学生だったらいやですがね。だからそういうので、昔は車もなかったですからリヤカーに一杯、焼酎のっけて、私の高校時代はバイク通学でしたからバイクの後ろにくくりつけてここから四キロ位の所に配達に行くんですよ。帰りには、力持ちの従業員の人たちをリヤカーに乗っけて走ってきたり、そんなことをしてましたよ。造りというよりも手伝いが嫌っていう感じでしたねえ。」


◆酒が飲めない家系

 森さんは高校、大学と地元で学生時代を過ごした。 28歳まで下戸だったということですが、28歳から飲めるようになったのですか?

 「ええ。練習しましてねえ(笑)」

練習したんですか。 最初はやっぱり自分とこの焼酎を飲んで練習したんですか?。

  「いや、最初はウイスキーでしたねえ。ウイスキーで。もう都会に出てましたからねえ。いまでもそうですけど、好きだけど弱いんですよね。ある程度飲んだら眠たくなるんですよ。いまでも、家でお客さん来ないときは、あの6:4で一合8勺くらい。飲んだらもう睡眠薬なんですよ。もうすぐいびきかく。」

グラスを手に持ったまま寝てるときもあるらしい。 『おとうさんは死んでるんじゃないか』と心配されることも。 しかしそこまで飲めるようになったということは進歩というか・・・・。 ず〜っと毎日飲んでれば飲めるようになるもんですかねえ?。

「そりゃでしょうねえ。あの、医学的にアルコールを受け付けない体質じゃなかったと思うんです。嫌いだから飲めなかったというだけで。親父の方は元々飲んべえですけど、母方のほうは、一滴も飲めないほうだったもんですから、多分母方を引いたんじゃないかなあと思ってるんですけど。でもだから息子でもやっぱり弱いです。飲んだら寝る方です。娘は飲めるか飲めないか調べたら学校で女の子で一人だけ弱い反応が出たといってですね。」

要するに、アルコールに弱い家系の血が入っていると言うことなのだ。

「強い方じゃないですね。自分たちもお客さんの相手はしますけど昔はお客さん来たって私が先につぶれて、もうほれ一杯か二杯か飲んだら酔っぱらって寝て、ニョウボがお客さんの相手しとったこともありましたもん。友達だからいいんですけど。(笑)」


◆だからいい酒が出来た。

 そうすると最初にご自身で杜氏としてお酒を造るわけだから、当然どんな味ができたかというそれを判断されるわけですよね。そういう味が、焼酎の味というのがわかるようになったのはいつごろですか?。

「あのですね。ま、幸いかあれかしらんけど、全然焼酎に携わっていなかったでしょう?。32の時にUターンで帰ってきて、親父の4代目の下で蔵子で働いて、そん時まで焼酎って全然縁がないわけですから、都会で芋焼酎なんて売ってないわけですから、せいぜい飲むといったらビールかウイスキーくらい。それで帰ってきて、新しい世界ですから・・・・」

 それまで焼酎造りに携わっていなかった森さんは「逆にそのことがよかった」とふりかえる。すなわち、醸造業界ではなくて業界外から見た立場で、しかもアルコールに弱いという立場で焼酎の味を見ることが出来たのだ。
 森さんはそれまで一日30〜40本吸っていたたばこもやめて嗅覚味覚を鋭敏にすることに心がけた。

「この森伊蔵というのは私が造った銘柄ですから、昭和63年の12月15日に初蔵出ししてやった焼酎なんですよ。私は大学も電子工学ですから、醸造科全然関係ないし、私跡取りじゃなかったわけですからね、8人兄弟の末っ子ですから。跡取りやったら醸造科でも入ったりなんかそういうこともすると思うけど、逆に異業種だったからそういう、いい判断が出来て、今みたいなああいう森伊蔵っていう、もちろん中身もそうだけど、意匠面なんかでも、ネーミングなんかでも、今までない画期的な焼酎が出来たと・・・・」

 こういう森伊蔵という焼酎を造ろうとした動機が、当時としてはとんでもない発想だったと森さんは振り返る。

  「これはもう親のいうとおり、家をつぶさんように問屋さん周りをしてとか、リベートをつけたり、いろんな景品等々をつけて、焼酎一本でも売ってもらう、そういう努力をすると思うんですよ。でも私はもうそういうのを、極端にいえば酒類業界は初めてですからねえ、だから売れなかった、売ってくれなかった。そしたらもうお客さんが買いに来る焼酎を造ろうじゃないかというとんでもない発想をして、やっとるわけでしょう?。酒類業界に携わっておったら、製造、卸、小売り、お客様というこの川上から川下に流れるこの流れに逆らうということは出来ないことです。でも、逆の方法をお客さんが焼酎を買いに来ることを考えて造ったわけですから。これも、こういう業界に入っておったらとうてい発想できないことですからねえ。」


◆森伊蔵以前の頃

  森さんが蔵子で働き始めた頃、錦江という銘柄を造っていたが、これは売れなかった。 このことに関する苦労話には事欠かない。マスコミ、大量生産、大量消費の時代に押し流されそうだった。

「酒造りが終わったら後は販売だけですから、トラックに乗っけて小売り店周りとか、そんなのやってましたから。それが全然売れなかったわけです。地元でも私共が造り酒屋だと知らない人がおったくらい。ええ。ちょっとはずれて次の集落にいったら、『錦江ってどこん焼酎や?』とかなあ。もうあのころはコマーシャル時代・流通時代ですから、大手のメーカーさんがどんどんコマーシャル打ってトラックでどんどんもってきて、ここの集落の酒屋さんでもよそのメーカーさんの看板が立ってよそのメーカーを売る。」

 この時代、次々とこうした形で駆逐されたしまった地焼酎銘柄は他にもたくさんあったに違いない。

 「昔はここの集落の人は、うちの焼酎以外は飲まなかったんです。私なんかが小学校から高校くらいまでは、ほとんどうちの酒しか買ってなかったですもんねえ。で、その頃は量り売りでねえ、今みたいに裕福でないわけですからね。一合・二合を毎晩買いに来るもんでしたから。」

  そうして森さんは、焼酎が量り売りだった昔の話をしてくれた。

  「そういうときでも、やっぱり焼酎は文化があってねえその、焼酎のみが一合飲むのでもお猪口一杯でも多く飲みたいわけですから、だから、酒屋さんでも、じいちゃんとばあちゃんと、ね、計り方が違うわけです。
 じいちゃんは、けちだから、きちきちはかる、
 ばあちゃんは、おまけしてちょっとこぼして、こう入れてくれるとかね。
 だから、子供がお使いで、焼酎を買いにやらされるときは、『あ、今じいちゃんがおるから後で買いに行こう』とか、『あ、いま、ばあちゃんがおるから早よ買いに行こう』って、そうしてきおったもんです。
 で、二合買うのでも、一合を二回買いに来るとかね。そうすると、おちょこ二杯分多くなるわけですから。だから、そういうお酒を買いに来るでもねえ、『通い瓶』っていいましたがね。おうちと酒屋さんをいったり来たりする瓶があってね。」



◆以前の錦江と今の森伊蔵の違うところ

「全部違います。180度違います。」

というと?

「基礎は一緒ですけど、工夫努力してますから。
 親父の時代、戦前戦後ですね、戦前はともかく戦後ですね、もう酔っぱらえさえすればいいわけですから。もう、にごっとろうが臭かろうが、かまわない。要はアルコールがない時代ですから、臭かろうが辛かろうが甘かろうが、旨いとかまずいとかの世界じゃなくて、『飲めるか飲めないか』の世界だったんです昔は。」

そして、そういう厳しい時代の人々の飲酒実体の話に・・・。

「ほんとそうだったんですから。だから、飲めない人は冠婚葬祭に行ったら、『ただ酒』だから、足が立たんくらい飲んで、その辺につぶれた人がいっぱいおりました。家では飲めないから、一ヶ月分くらいまとめて飲むわけですよ。だから足腰たたんで、その辺につぶれて寝ておったりというのがいっぱいおったんです。『よくろんぼ』ちゅうて。昔は。いまそんなことしたら、はずかしくてねえ、家に一升瓶があっただけで飲んべえみたいに思われるから、なおして(収納して)ますがね。だから、そういう、飲めさえすれば売れおった時代ですから。」

  そういう昔の焼酎と今の焼酎とは造り方の基本は違わないが、その工程一つ一つの進歩の仕方がすさまじいという。

 「米を蒸して麹をして、麹米造って、酵母を造って、それに、からいも入れて蒸留して、そういう焼酎造りの基本は、今も昔も一緒です。ひとつひとつが、全然天と地の差に進歩しましたからね。私の場合は、それくらい進歩しました。ま、他のメーカーさんも、昔からしたら、技術的に研究的にだいぶ良くなった、だいぶどころか180度よくなってますから、だからそこいらへんがちがってきてますからね。」


◆森伊蔵という焼酎

▲蔵の入口の、のれんと電灯


 森伊蔵というのはおじいさんの名前ですか?

 「いえ、私の父の名です。四代目です。だから原料から、造りから、管理から、瓶から、包装から、すべて要は、親父の代までやってきた焼酎造りの形でやったら売れなかったと。
 最終的に商品造ったら流通にお願いすると。これが我々造り酒屋のシステムですわね。それで私は壁に当たって、売れないと。そしたら、だめだから、これの反対のことをしたら、お客さんが買いに来てくれるんじゃないかと。ていうことで、180度反対のことをしたわけです。原料から造りまで。もう外見まで、すべて違うから、銘柄名も変えようと。そうしないと、今の錦江とは、違うわけですから。それで銘柄名、考えたんだけど、今まで焼酎業界がしなかったことをしてきとるわけですから、他のメーカーさんが、使ってない銘柄名を、つけないといけないわけですよ。焼酎メーカーさんが使ってない銘柄ってなにかっていうと、いろいろ地域の名前であれ、自分とこの名字であれ、いっぱいあったけど、でも生きた人間の名前というのはなかった。」

ははあ、なるほど〜

「人のマネは嫌いでしたから私は。生きた人間の名前はなかったんです。それで、森伊蔵って字も三つ、これが二文字とか四文字とか、上とか中とか隙間のあいた漢字だったらだめだけど『森伊蔵』って字も詰まって、『蔵』って漢字も入ってますでしょう?。語呂も『モリイゾウ』って言いやすい。うちの父が自分の人生これまで八十何年、いい人生だったと。新聞の好きな親父で、いつも2社とって隅から隅まで読む人で、同姓同名がないと。森伊蔵って。それが自慢だったんですうちの親父はね。これをいただこうと。現に生きてるわけやから。それでつけたんです。」


◆森伊蔵という人物

じゃあ、その森伊蔵という名前をいただいたときは、お父様はおいくつだったんですか?

「えーと現在96ですから、15年ばっかい前だから81くらいの時ですかね。」

まだお元気なんですか?

「ええ、元気です。もう足腰がダメですけど。明治39年生まれです。日露戦争のあくる年ですから。東郷平八郎がバルチック艦隊を破った明くる年に生まれているんです。明治39年3月10日ですから。私が3月9日です。一日違いです。もう化石みたいな人ですよ。96年も生きてるんですから。西郷隆盛が死んでから、29年目に生まれてるんですから。そういう意味では古い人でしょう?。」

どんな方ですか?

「あのね、私子供心に威厳がありましたね。昔の人ですから、親父の座るところは、場所はきまっとるし。みんな、まず朝起きたら、仏壇に手を合わせますね。親父がしとるから。
 今日一日怪我のないようにと言って。
 そして帰ってきたら今日一日ありがとうございます。
親父が座って、みんなそろってから、食事するんですよ。これ毎日でしたから。
 するとやっぱり、親父は威厳がありましたね。親父からしかられたことや、叩かれたことは一回もないんです。そのかわりお袋には、しょっちゅう箒を持っておっかけられてましたから。お袋に関してはちっちゃいころから『かあちゃん、かあちゃん』とよぶんですよ。おっきくなっても『かあちゃんかあちゃん』。
 飲み屋に行って、金がないときは『かあちゃんちょっとお金ちょうだい』とか、でも親父に対してはね、『おとうさん』ってちっちゃいときから、まあ今は『親父!』って感じだけど、もうおっきくなるまで『とうちゃん』と呼んだことはないです。『おとうさん』です。はい。これはくずしたことがない。」


森伊蔵さんは、明治生まれの威厳のある親父さんだったことがうかがえる。 しかし、その森伊蔵さんも100歳近いご高齢。

「それだけ自分の心の中で親父というのは偉いんだと。その学識的にとか地位的にとか経済的にじゃなくて自分の父親というのは偉いんだと、と思ってました。
 だから最近は、お風呂入れるのに、私が背中におんぶして、自分でお風呂に入れて、今度は女房が湯船の中で頭からつま先まで洗って、今度は私がまたおぶってあげますけどねえ、やっぱりあれだけ威厳があった親父が息子におんぶされる、そういう姿を見てるのもかなしいがよ。自分自身がね。もうちょっとな。・・・・・」


◆父森伊蔵→厳しい→戒律を守ると言うこと

「うちの親父は笑うことをしない、にがみばしって恐かったんですよ。どつくとか、大きな声を出すとか、一切しない人でした。しゃべりも温厚にしゃべるけど、笑うことが出来る人じゃなかったんですよ。」

森さんは、そういうお父さんを見て育ったためか、ご自身も余り笑わないのだという。

「だから、私が女房子供から言われるのは、私は親父に似ておって、子供の同級生は私を怖がりますから、余り笑わない方ですから私は。はい。『おまえんとこの親父は恐い』と息子の同級生も言うし。だから娘なんかは、友達が来たら、『お父さん笑って笑って』といわれて作り笑いをするんですよ。にこっとわらってねえ、このへんがつっぱってるっていつも言われるんですよ。」

そういう威厳のあるお父さんの意識があり、ご自身もやはりそうしておられる。

「親父は尊敬できる偉い人と思ってましたね。だから親父には冗談は言ったことはないです。口げんかも、お袋には言いますよ、『何でこれ洗濯しとかんか』とか、いいましたけど、親父には一切言いませんでした。私、末っ子で甘やかされてきたけど、やっぱり親父は偉いなあと。だから今でも私は、風呂にはいるのも、一番風呂に入るんですよ。うちの娘は男女差別だ、封建的だ、といつもいうけど、いいんだと。うちはうちのやり方でやるんだと。私の座るとこも決まっとるし、今言うように、私は何も言わないけど子供達も仏壇に手を合わしますし。」

都会の中では死滅してしまったような戒律も森家では健在だ。

「だから、夕方爪を切ったらいけないとか、新しい靴は午前中おろしなさいとか、そういう昔言われたこととか、そういうのなんかも全部守ってますもんね。息子でも娘でも、やっぱり逆らわないでやりますからね。これをしたらいけないよと、極端に言えば蔵で針仕事なんて針使ったら絶対ダメですが、もちろん嫁さんもだし、従業員も絶対使わないわけですから、そういう感じでね。」

蔵で針仕事したらいけない理由は?

「水商売ですからほら。針の穴から水が漏れますがね。だから蔵の中で針仕事はもちろんないですけど、棘が刺さったりしたときは、蔵の外に出てとるとかね。縫い物も一切蔵の中ではさせません。そういう感じでね。やはりものづくりというのは、自分自身でいいから決まりとか、戒めとかそういうのをしなければ、ちゃらんぽらんになってくるような気がしてね。」

 従業員の働く工場にも様々な戒律がある。

▲これは工場の壁。
 取材に伺ったのは、

ちょうど十五日だった。
 塩と米で清めてあるのが
おわかりだろうか?。


「自分でしなくてもいいけど、ここはこうしなければならないとかね、そういう形で、うちは昔からそうだけど、一日と十五日は塩米、清めで全部蔵のまわりから、うちの神棚であれ、トイレにも神様がおるからトイレにも清めたりとかね、会社の車とか、従業員の車とかも塩で祀ったり、錆が来るかもしれんけど、それをしないとおちつかんしね、そういう感じ。だから自分に対してそういうのをやってね、それで大したプレッシャーじゃないんだけど、私は、伝統の物造りをしてるんだと。そういうのがいいんじゃないかなあと。今、そういうなんもかんも文化がない時代になりましたがね。我が家だけは今言うようにそういう感じでね最低限度のそういうルールとか、そういうことをしようと。やってますね。焼酎を造っている間は納豆を食べちゃ行けない。ヨーグルトもダメだとかな。もちろん蔵の中に水を含むみかんとかねずっとおいとくな、とかね黴るから。他の微生物が入りますからね。」



◆『かめつぼ焼酎』の元祖!。

 知らなかったが、かめつぼ焼酎という名打ち方をしたのは、森伊蔵が最初なのだそうだ。

「『かめつぼ焼酎』っていうのも私が造った俗語というのか、いままで、手造り焼酎っていうので、あるメーカーさんが、一世を風靡されましたから、みんな手造り焼酎手造り焼酎っていうラベルをつくりました。私は真似をしたくなかったから、うちはかめつぼで造っておるから、それで『かめつぼ焼酎森伊蔵』って考えたんです。だから、かめつぼ焼酎って名前を造ったのが私なんです。」

私は小売り店さんが広めたのかなと思ってました。

「いやいやいや。そのあとに全部みんなカメとか壷とかカメ仕込みっていう銘柄、全部鹿児島市内の小売り店さんたちが、PBでいっぱい造ってこられたんですよ。ある有名小売り店さんはうちがだしてから『売らしてください』ってきた人たちですから。そのあとに、かめつぼ仕込みのいろんな銘柄を後で造られたんです。ああ、森伊蔵さんみたいにああいうかたちでやりたいと、みんなあとでPBで造った銘柄ですから。」

今のかめつぼっていうのはいつ頃からあるものですか?

「明治18年からの物です。」

今の蔵が建ったのが明治18年?

「はい。これより大きくはなかったけども明治18年から焼酎の製造をやってますから。初代の伊エ門っていう方が。」

森覚志さんは五代目。ここで森酒造場〜森伊蔵酒造の歴代を整理してみよう。

一代目 森 伊エ門
二代目 森 覚次郎
三代目 森 覚男
四代目 森 伊蔵
五代目 森 覚志


◆売れなかった時代のこと

「苦労話というか要はほとんど私が帰ってくるまで自店小売り100%だったんです。この地元の酒屋さんだけが小売りで出しとっただけで、自分とこで作って自分の小売り部で売っておったという感じでしたからね。」

▲自店小売り用の店
店の前の大きなかめつぼには、
「かめつぼ焼酎錦江」とあった。


量的にもほんの少し?

「ええ、量的にも少なかったですから、親父とお袋と、手伝いが一人か二人くらい、ま一ヶ月間40日くらい作っておっただけですからね。昔はね。」

何年に戻ってこられたんでしたっけ?

「ええと昭和56年ですね。32でしたね。森伊蔵をだしたのは昭和63年ですからね。61年に跡ととって五代目になりました。親父が引退して。その時にここを法人にしたんです。」

それまでは、個人の名前でやってらっしゃったわけですか?。

「はい。森伊蔵酒造場としてですね。だからそれまで、暇があったら、酒屋さん廻り、やっておったんですけどね。なかなか・・・。いろんな景品、コップ・マッチ・前掛けというそういう備品もないし、それに小売り店とか問屋に対して経済的援助、ま、リベート等々も援助することも出来ない、盆正月に宴会でも行くかとか、そういうのも出来ない。ないないづくしだったから。あとはもう誠意だけでしたからね。昭和五十六年からずうっとやってきておったわけです。『これじゃだめだなあ』と思って。人と同じことをやっておったら、だめじゃないか。それで人と違うことをやりたいなと。」


◆おかしな流通について

焼酎の流通がおかしいといいますが、特約店があられるわけでしょう?。全国で57店ですか?。

「鹿児島では代表するのが鹿児島市内で三件、山形屋で若干、」

そこから買ってきて、高くで転売する人たちが居ることは、焼酎ファンならばご存じの通り。これについて、森社長は、

「それはもう一番、私が遺憾としていることなんですよ。」

と語気を強める。

「先ほどの話じゃないんですが、『たかが焼酎』なんですよ。『たかが焼酎』。されど、森伊蔵は『されど焼酎』なんですよ。消費税込み2500円はしますよと。千五百円の焼酎じゃないですよと。原料の芋も契約栽培で、米も福井の華越前を使って、2381円はする焼酎ですよと。でも、五千円も一万も三万もするような焼酎じゃないですよと。」

  高値販売だけでなく、抱き込み販売のケースもあると聞く。

「私はいつもね、他の抱き込みされたメーカーさんも、森伊蔵のおまけを作ってるんじゃないと、怒られると思うんですよ。逆に。昔、私と取引のあった酒屋さんは頒布会といって、抱き込みで売っておったんですよ。私怒りまして、『あんたたちこの頒布会にされておる焼酎メーカーさんのこと、考えたこと有るか?』と。『一生懸命、朝起きてから難儀して作られとるんだよ』って。『わしなんで森伊蔵さんのおまけでうられんといかんの?と。おこられるよと。」

こういう抱き込み販売の頒布会に対しては、森さんは厳しい目を向ける。 また、高値での転売、卸や小売りの免許を持たないままの販売に対しても同様である。

「東京だったら運賃1200円〜1300円かかりますから、3800円かそこいらへんはします。でも、鹿児島では2500円ですよと。それ以上するのは、変な人が売っとるやつですよ。そういう小売り免許を持っていない一般の人がね、買って、インターネットでオークションしてどんどん高値にしてですね。ある同業者でも私なんかがやらしてるみたいに思われてますけど、私共はそれをくい止めるために自店小売りをやってるわけですよ。電話で登録いただいて、お客様に抽選であたったのはずれたのというのはほんとに申し訳ないけど、抽選をさせていただいて、お買いあげいただくようになったら、2ヶ月後に一本という形で、正規の値段でうっとるんですようちは。なんでかというたら、森伊蔵はこれだけしかしませんよと。一万円するのはあれうそですよと、いうのを知らせるために、自分所はガードマン雇って交通整理させて売っとる訳です。2500円で。一部のうちに関係ない酒屋さん、一部の消費者がそういう金儲けのためにされとることでですね、これがほんとの姿じゃないですから。これはほんとにね、いかんです。」

それをなくすためにはどうしたらいいでしょうか?

「なくすことはね、出来ないです。なんでかというと無くするには、うちが供給を増やすしかないんですよ。需要と供給のバランスがくずれとるわけですから。それはそうでしょう?。欲しいという人がいっぱいおって品物はないんですから。いやいやわしが買うわしが買う、いやいや私がいくらで買う、いやいや私はまだ高く出すからって言って、こういう売り手市場でしょう?。うちはお客はどんどん集まっても森伊蔵はこれ以上作れないし作らないんですよ。あれだけの蔵ですから。昔も今も一緒ですから。」

森伊蔵の石数は約1000石。一升瓶10万本、180klだという。

「だからそういうので、これ以上は出来ないんです。だけどお客さんは毎月毎月増えとるんです。買いたい人がいっぱいで、買っていただく焼酎が少なかったら、これはもうあの〜こういう状況になっていくんですよ経済ですから。だから、正常な価格でするには、うちはどんどん供給すればいいんですよ。でもうちは供給は出来ない。これ以上は作らない。新工場も作らない。変な形の売り方もしたくない。これは、あくまでそういう人たちが一人一人、あ、こんなことをしたらいけないなあという、それしかないんですよ。やめさせると言うことは出来ない。逆に、私どもが言ったら、公正取引委員会で逆に私どもがつかまるんですよ。
 いまは、メーカー希望小売価格とうたったらだめなんですよ。オープン価格なんですよ。安く売ろうが高く売ろうが、酒屋さんの勝手なんですよ。酒屋さんはいいんですけど、酒屋さんに『2500円で売りなさい』といって向こうを訴えたら、『森伊蔵さんは私に強制的に言ってきた』といって、私自身は公正取引委員会につかまるんです。」


おかしな話ですねというと、森覚志社長はおおきくうなずいだ。
森伊蔵が、インターネットの世界でもプレミア焼酎の代名詞として何かにつけて引き合いに出されるのは皆様ご承知の通りである。

「お客様にねえ、おまえん所は自分の焼酎、オークションにかけるんかとお叱りを受けたんです。うちはそういうようなことはいたしません。」

人気がでると名前が一人歩きを始め、値段も一人歩きを始める。

「だからお客さんには、絶対そういう高い焼酎は買わないでくださいと。普通の焼酎ですから。コップ一杯が、千円の二千円のとそんなの世の中に今ないですから。それは言っております。そういう地道な事しかできないんですよ。お客さんからおたずねがあったら、そういうことを言う。それしかないです。」


◆森覚志社長、森伊蔵の味を語る。

 今のように有名になるのの、一番最初のきっかけっていうのはなんですか?

  「きっかけというのか、まあ全部口コミですから。うち宣伝費はゼロですから。宣伝費は一円もかけておりません。口コミでして、それがマスコミの方々にいって、テレビ新聞ラジオ週刊誌等々が取材に来て、マスコミの力の応援、愛飲家の方々の口コミの宣伝、それだけですね。私どもはもう、自然体でいい焼酎作っとるだけでしたから。」

実は当サイトの管理人、森伊蔵の一升瓶と晩酌でつきあったことがない。だって手に入らない。 どんな味かと訪ねてみた。

「えーとですね、まろやかで旨みがあります。もうさつまいも独特の旨みですね、甘味じゃなくて旨み。人工的なやつじゃなくて。そういうのでね、一口でいうとまろやかで旨みのあるキレのいい焼酎。」

香りはどうですか?

「香りは今いうように、これが芋焼酎かというくらい芋臭さがないんです。だから20の若い女性も、飲もうかという感じ。」


◆焼酎の飲み方について

 「私は一年を通じてお湯割りなんです。
私の主張は、ほんとは生で飲んでもらいたいんです。みなさんには。
 お湯割りというのはなんでかというたら、体に昔から焼酎は25度ですから5:5といって12〜3度の度数になりますね。日本酒とかワインなんかの世界になりますと低アルコール化という形で、お湯割りというのは体の体温に近づけたいということね、ま胃を刺激しない、お湯で割ることによって、芋の成分もでてくると。今いうように、薄めて飲めると。これも、昔からの私の考え方ですけど、貴重なもんですから、生で飲んだら一合は一合だと。5:5で割ったら1合も2合になると。そういう形でですね、お湯割りの仕方も焼酎が先かお湯が先かというのがあるでしょう?。
 あれもね、私の持論じゃないけど、あれは経済から来てるんですよ、生活から。ここはね、みなさん焼酎が先なんですよ。」

え、この垂水市牛根境の近辺では焼酎が先?みなさんそうされるんですか?。

「だいたい焼酎が先、お湯があと。なんでかというたら、ここは漁師町ですがね。漁師町というのは、極端な話、網元は裕福だけど、セコの人は、裕福じゃないんですよ。」

セコ?。というのはどんな字をかくのか訪ねたのだが、良くご存じなかった。昔からこの土地では実際に網元の下で漁業に従事する人をこうのように呼ぶのだという。似た言葉を探してみたら、

『勢子(狩猟で鳥獣を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫。かりこ。)』

という言葉が見つかった。語源は同なのか?。 ちょっと話がずれたが、もとにもどる。

▲垂水のブリの養殖基地
蔵に行く途中にであった風景


「で、一ヶ月に一度、『サンノ』といって、給料を支払う日ですね(網元がセコに給料を支払う日、『算納』)そのときに魚が捕れなければ給料はゼロです。
 でもその日は、金はもらえなくてもごちそうで、うどん食べ放題、焼酎を飲み放題なんですよ。
 唯一それが楽しみだったんですよ。給料がなければ酒も買えないですがね。だから冠婚葬祭、ただ酒はたくさん飲むわけですよ。
 そういったときに、やっぱい、(いつもは飲めないので)お湯より先に焼酎をどぼどぼどぼどぼっといれるんですよ。ついつい先に焼酎に手が出て、あとで、お湯を入れないと、『あいつはしょちゅばっかいのんじょっ』ちいわれますから、お湯を入れる真似をしてちょろっと入れるんですよ。昔は湯飲み茶碗だから、みえないから、それにお湯もやかんだから、それでお湯を入れる真似をして、ちょろっと入れるんですよ。そういう癖があって先に焼酎。」

 なるほど。飲酒習慣というか、焼酎が先かお湯が先か論争は今でも相変わらずあるが、こういう経済的事情からくる、『焼酎お湯割りの風俗』とでもゆうべきものがあるとは驚きだ。森さんは、焼酎の飲み方は『商業圏と農業圏、漁師町では全然違うんですね。』とおっしゃっていた。

「そういう形で、私はやっぱり生で飲むのが、焼酎の成分がいいですから、私は、25度以外は一切発売しないんですよ。
 四十何度というのは、生で飲めないでしょう?。なかなか。氷入れる、水割りする、水割りするのも氷造るのも、そこの仕込み水が一番ですよ。
 仕込み水で氷を造る、仕込み水で水割りする、それが一番いいんだけど、よそじゃいい水はないですがね。だからそういうことで、できたら水割りするのでも、氷いれるのでも、そういう何とかの水というのを買ってきて、それで氷造って、においが移らないナイロン袋にいれて、冷凍庫に入れてそれを使ってくださいと。
 理想的は、一日前に水で薄めてやればいいけど、今の世の中時間がない世の中ですがね。だから私は今いうように、焼酎6で、お湯を4。ぬるま湯です。そしたらほんとに人肌燗。赤ちゃんの人肌燗。あんまり熱いお湯ですと、アルコールが飛んでむせます。いい味はしません。もう味もわかりません。天文館に行けばスナック行けばあつ〜いのをお姉ちゃんが出すから、私はいつも教えるんです。

『こんなのをのんだらな、もあんた、味も素っ気もないがね、ぬるま湯をしなさい。』

それをしたら、ほんとに焼酎に6:4位にしたときが、ちょっと焼酎を(度数が)十五度くらいにした方がおいしいんですよ私はね。で、お湯割りで6:4で飲んでます。」

  28歳まで下戸だったというお話しだったから、その辺があるのかもしれないですね。 そこは。

「ですね、やっぱりね、旨みを出すにはあんまり薄めたら旨みがないですからね。」

本当に昔からのんごろの人は臭いがキツイ方が好きな人もいますよね

「ですね。昔から、ほんとののんごろっていうのは、もう三時以降は水も飲まんっていいますもんね。焼酎だけ飲んで、ほんと食道を焼酎がとおって胃袋にすと〜んっていく、これが旨いんですよ。
 旨いんですけど、体に悪いから。でも私なんかも、今はたまに宴会なんかで行って、会議が5時で終わってそれから宴会で、あの6時頃から飲むときは空きっ腹で飲みますがね。旨いですがね。
 飲み方としたら体のことを考えたりしたら、お湯割りがいいけど、私は、できたら25度だったら生で飲んでくれと。生で飲んで横にミネラルウォーターでも置いて、これを含んで飲むのがほんとはおいしいわけですからね、はい。キツイ酒を飲むときは水を含みながら飲むというのがありますがね。」

チェイサーというわけだが、ショットバーで飲むウイスキーなどは度数が40度以上ある。

「私は25度が好きなもんだから、25度以外は発売しないんです。だから長期熟成酒も25度ですから、だからそういう形で生で飲めるベースを造ってあげたいと。25度だったら生で飲めますから。だから下手な水割りで二杯飲むんだったら、生で一杯飲んだ方がよっぽどおいしい。昔だったら一杯より二杯というのがよかったけど、いいお酒を少しだけ飲もうと。それは私の主義です。私は、今いうように皆さんがうらやましがるように(笑)森伊蔵を毎晩飲んでますから。焼酎が一合、お湯が7勺くらい。」

結構少ないですね。

「でも外に出たりお客さんが来たら相手しますよ。飲みますよ。」

たくさん?

「たくさんってまあまあ、でも帰られたらどうして寝たかわからんくらい。(笑)」


◆今人気のある焼酎の話

  無名だった銘柄がインターネットなどを通じて有名になっていく例も出てきている。こういう現象に対して森さんはこう語る。

「そういうね、昔みたいに名前の通った蔵だとか、そういう姿形じゃなくて嗜好品だから、飲んでいいのはいいわけですから。そこなんですよ嗜好品というのは。
 だから小さな蔵でも、ほんまもんだったら、ちゃんと食っていけるようになるんです。ちゃんとした適正価格で、たたき売りしないで。
 (情報発信する皆さんが)正しい情報を、私が言ったのが、正しいか?、それはまた第三者にも聞いてみて、森さんはこういってますけど、どう思いますかとかね。いろんな情報やっていただいて、正しい情報を発信していただくと。そうしないと、間違った情報というのもいっぱいあるし、過大評価されることもあるし、それでいろいろ問題も起こりますから。今ブームですから、ブームというのはお祭りですから、足が地に着いてませんから。全国の酒屋さんが南九州見てるわけですからだーっと。」


次から次に来ますからね。今まで見向きされなかったのにですね。

「でしょう?。もう今までそういう風にやってないから、つい、もう、豚もおだてりゃ木に昇るで、ああそうかそうかとなってくるんですから。だからそこいらへんはやっぱりね、(ブームであることを認識した上で)長い目で見てやって欲しいと思いますね。」


◆これからの焼酎業界にたいする提言

 森さんは『提言なんておそれ多い』と前置きした上で、こうおっしゃった。

「諸先輩方々、(このリレーインタビューに出てきた)児玉さんにしろ薩摩酒造の鮫島さんにしても醸造家、プロですから私なんかもうほんとに親父から五感で教わった人間で、微生物の数量がどうのブドウ糖が何%の何ccのということは、研究所もないしやりません。」

森さんは『五感で造って毎日飲む』のだそうである。自分で自分の焼酎に惚れ込んでいるという。

「いまでこそ、1000石造ってますが、昔はそれこそ120〜130石しか造ってなかったんですから。そういう蔵でもいいものを造れば皆さんが支持してくれる。いいものですよ、ほんまもんですよ。ほんまもんを造ると言うことです。小手先じゃなくて。ほんまもんをつくることです。これは旨い焼酎、これはまずい焼酎って、洋服やダイヤモンドみたいに一目見てぱっと判断できるもんじゃないんです。嗜好品ですから。その人が飲んで『ああ、おいしいなあ』という焼酎を造ると。」

ある人から、『森さん何をすればいい焼酎が出来ますか』ときかれたので、『それは造る人の心意気ですよ』と答えたそうだ。

「造る人の焼酎造りに対する熱意さえ有れば、あ、いい原料を使おう、いい仕込みのタンクを使おう、夜も温度管理に気を付けて、出来た商品の脂取りを良くしようと。心意気さえ有れば全部カバーできるんですよ。いい原料使った方がいい焼酎ができますとか、そういういい焼酎つくる気持ちさえ有れば、全部やるんですよ。それだけのことですよ。」

変わったラベルやデザインだけではなくて、中身で勝負すべきとの思想の持ち主である。

「やっぱり中身で勝負すると。そうしたらお客様は飲むときはみんなコップで飲むんですから、あの瓶でラッパ飲みするんじゃないですから。飲むときはわからんですから、『ああ、これはうまいなこれはどこの何という焼酎な』といって『あ、それは何々ですよ』っていって『ああ旨い焼酎だな〜』ってなっていくんですから。ねえ。」

焼酎ブームだからといって、今波に乗らなければと焦ることはないとの見解もお持ちである。

「造り手の熱意というか、心意気というのか、それさえなくしなければ。少しづつでいいですから、焼酎が鹿児島県外に売れるようになったら、鹿児島の焼酎メーカーさんは、造っても造ってもつくりきらんですよ。県外は市場がこれまでゼロでしたから、いままで。1%シェアがあったとき、何万石という量になります。大規模な工場がたくさん出来ないといけない。」

原料の芋の問題もあるし、急にそれは無理だろうと思う。長い目で見なくは。

「だからじっくり落ち着いて、焼酎は今440年くらいですか、記録があるのは、郡山八幡ですね。あれでたかだか440年ですからまだ。まだ先のことを考えればね、みんなあわててすることないんです。だから私は息子の代、孫の代、曾孫の代もず〜っと続けるように計画やっとるんですよ。まあ、私がけ死んだらどげんなるか、世の中地球がどげんなるか、そんなこと考えておったら夢がないでしょう。仕事もやる気がないでしょう。わたしこれ、掛け軸に夢っていう字書いてあるんですよ。ちょっと読みにくいけど。」

写真の掛け軸をご覧いただきたい。

▲『夢』と書かれた掛け軸


「これ、北野摂山ていって私どもの『かめつぼ焼酎森伊蔵』っていう字を書いてもらった方に7年くらい前に書いてもらったんです。」

そして、夢をもってものづくりをする楽しさを少年のように語ってくれたのである。

「私やっぱり夢を持ってねえ、こうすればいいなあって考えるのは、楽しいですがね。
容器はこんなのがいいなあラベルはこんなのがいいなあ、カートンはこんなのがいいなあっていうのを考えるだけでね、わくわくしますね。それで逆に商売になったらなおいいですがね。
 まず夢を持って、殺伐とした世の中だから。もう五十年先のことは、どうなっとるかと。五十年先はちんがらっなっとるかもしらんけど、私はあと百年して、五代目の森覚志という人がこういう焼酎造って、あの当時はこうだった、新聞とか文献を全部残しておきますから。
 そういう十代目が語るような、ね、あのころはこういう焼酎だった、こういう容器でやっていたとかね、今はこんなカプセルに入って(笑)とか、なっとるかもしれんけど、なあ、わかんないわけでしょ100年先は。
 でもやっぱり夢を持ってな、やっぱい十代も十五代も、うちの蔵も、今たかだか117年だから200年先300年先もね、私の子孫が造っておってな、そういうのを考えるようにしてるんです。
 もう温暖化で、空気が悪くなって、年寄りばっかりになって、焼酎飲む人がいなくなって、ねえ、カプセル一つ飲んだらよくろうようなとかね、そんなの考えないようにね。(笑) そんなの考えたらやる気がないですよ。」

 100年先にカプセル入りの焼酎が出来るなんてそこまで普通考えるか?と思うが、

「ですか?。いや、私はね300年保つ蔵を造ろうとかね、そういう考え方だったんですよ。高々あと2〜30年だけど祖先の子孫のことを考えている。
 この世に酒なしで世の中はまわらんです。神世の時代から酒はつきもんだから。酒が有るから世の中は廻るんですよ。
 腹が立つときは酒を飲んでうっぷんを晴らす、うれしいときは酒を飲むからほんとに喜ばれる。
 そういうことで酒はほんとに人生につきものなんですよ。そのためにも我々の業界というのは、永い歴史があって、これからも永くあると思うから、それを信用して私はね、そういう夢を持ってるんですよ。いつも。」

 悠久の歴史の中に息づく焼酎。今も昔も変わらず、ず〜っと同じ方法で酒を造り続ける。『変化の激しい世の中に対応しなければ・・・』とか『生き残るの生き残らないの』言う強迫観念じみた言葉は、ここにはない。もの造りが人間に与えてくれる希望や勇気が、森社長からはかいま見え、うらやましかったインタビューであった。



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