島津を知る

鎌倉時代から続く名家として

尚古集成館蔵

島津家は、源頼朝から島津荘の地頭職、薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護職を与えられた惟宗忠久が、島津を姓としたことにはじまります。鎌倉時代から幕末維新期まで約700年間南九州を治めつづけ、今なお鹿児島の地で人々とともに在り続けています。
激しい時代の波、苦難を乗り越え、今日まで島津家が繁栄してこられたのは、広大な海とそれに面した領域を支配する『海洋国家』だったということが最大の理由です。
かつて島津氏が統治する南九州は、海外交易の拠点となっていました。江戸時代、幕府が鎖国令を出し、南九州は海外交易の拠点としての機能を失いましたが、島津氏は琉球王国を支配下に治めていたため、幕府公認のもと琉球王国では中国交易がおこなわれ、薩摩へも海外の物資・情報が流入し続けました。このため、異国情緒あふれ、先進的な文化・技術が育まれていたのです。
このことが、南九州から「近代化」が進む大きな理由となっていきます。

日本の近代化は、この場所から

尚古集成館蔵

1840年代、日本の南端にあった薩摩藩は、他地域よりもはやく東南アジア・中国から北上してきた西欧列強の外圧にさらされました。これに危機感を強めた28代斉彬は、「日本を西洋列強のような、強く豊かな国にしなければならない」と考え「集成館事業」という富国強兵・殖産興業政策を推進するとともに、西郷隆盛など明治維新の原動力となった若い人材を育成しました。
薩摩藩は他地域に先駆けて近代化・工業化に取り組み、製鉄、紡績、ガラス製造など多くの事業が薩摩の地ではじめられ、そして飛躍的に進歩を遂げました。当時の日本は鎖国体制下にあったため、オランダの書物だけを参考に、西欧の知識と日本の技術とを融合させて様々なものを造り上げるしか「西欧に対応する方法」がありませんでした。非常に苦労する手法でしたが、これがこれによって日本だけが、自力で近代化に成功することにつながったのです。
残念なことに、斉彬は早くに亡くなってしまいましたが、彼の遺志を継承した29代忠義、その父・久光らの手で明治維新が成し遂げられました。

「明治日本の産業革命遺産」
として世界から認められる

2015年7月、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました。これは、19世紀に非西洋地域において、日本だけが短期間に近代化・工業化に成功していることが高く評価されたからです。
鹿児島の構成資産「旧集成館」は、幕末に薩摩藩が取り組んだ「集成館事業」に関する近代化遺産で、
・日本の近代化がどのように始まったのか
・なぜ日本だけが成功したのか
その理由を物語るものと位置づけられています。
当時日本最大、最新技術の工場群が、ここ鹿児島の地に存在していたのです。

守り続ける使命

島津家には、歴代が築き上げたさまざまなものを、守り、伝える使命があります。その一つが、名勝仙巌園です。
江戸時代初期の万治元年(1658)に、19代島津光久によって造られた島津家別邸。桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な景観は、国内に数ある大名庭園の中でも他に類をみないスケールの大きさです。
庭の中央には御殿、幕末に島津斉彬がガス灯実験を行ったと伝わる鶴灯籠や、樹齢約三百年の屋久種五葉松、琉球国王から贈られた中国風のあずまや「望嶽楼」などがあり、見る人を圧倒します。さらに後苑部には、岩壁に文字を刻んだ「千尋巌」、「曲水の庭」や「江南竹林」など中国文化の影響が随所に見られます。鎌倉時代から続く大名家・島津家ならではの年中行事もみどころのひとつです。この庭園は、今や鹿児島を代表する場所となっています。
隣接する、博物館「尚古集成館」本館の建物は、慶応元年(1865)に竣工した日本最古の石造洋式機械工場「旧集成館機械工場」です。国の重要文化財であり、一帯は仙巌園の一部とともに世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産「旧集成館」に登録されています。館内では、大砲、琉球船模型、復古鎧、薩摩焼、薩摩切子など、多彩な展示物が島津家の歴史を伝えます。
長く深い歴史を持つ島津家。
今後もこの場所で、守り、伝え、鹿児島のみなさまとともに未来を切り開いてまいります。

設立前史

1185 文治元年 島津家初代 惟宗忠久、島津荘の下司職に任命され、
のちに島津姓と十文字の紋を拝領
1197 建久08年 島津忠久、薩摩・大隅の守護職に任命
1587 天正15年 島津義久、大友氏を攻略し豊後府内に入城(領土最大期)
1600 慶長05年 島津義弘、関ヶ原合戦に参陣
1602 慶長07年 島津家久、本領を安堵され、幕藩体制下に
1658 万治元年 島津光久、藩主別邸として仙巌園を築庭
1851 嘉永04年 島津斉彬、藩主を襲封して集成館事業を本格化
1865 慶応元年 集成館機械工場(現 尚古集成館本館)、竣工

沿革

1922 大正11年 薩摩興業株式会社設立(事業内容:鉱業、林業、不動産管理業など)
1923 大正12年 集成館機械工場を博物館に改装し「尚古集成館」として開館
1951 昭和26年 株式会社島津興業に社名変更
1960 昭和35年 新九州建設株式会社(株式会社島津建設の前身)発足
1978 昭和53年 島津ゴルフ倶楽部開場
1985 昭和60年 薩摩ガラス工芸株式会社設立
薩摩切子の復元を発表
1986 昭和61年 薩摩切子の本格的な復元事業および製造を開始
2002 平成14年 野天風呂薩摩いろはの湯オープン
2003 平成15年 南九州クリーンエネルギー株式会社設立
2005 平成17年 尚古集成館本館展示室をリニューアル
2009 平成21年 「九州・山口の近代化産業遺産群」が世界文化遺産暫定リストに
追加記載され、旧集成館および旧集成館機械工場が構成資産に
島津リテールサービス株式会社設立
2015 平成27年 旧集成館(集成館跡 仙巌園)明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業としてUNESCOの世界遺産リストに登録
2017 平成29年 仙巌園初めての全体リニューアル
2018 平成30年 明治維新150周年
島津ゴルフ倶楽部40周年

社章の由来

「丸に十の字」

島津興業の社章は「丸十」、これは島津家の家紋としてあまりにも有名です。しかし、この丸十紋が島津家の家紋となったのは戦国時代の終わり頃からです。それ以前の家紋は十文字、「十」だけであり、ザビエルの手紙にも島津家当主が十字紋をつけていたことが書かれています。なぜ丸で囲まれたのか、理由ははっきりしませんが、殺伐とした時代が終わり平和になるにつれ、家紋にも装飾性が求められたからではないかといわれています。